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スーパーカー、現在ではハイパワーと呼ばれるデザインが芸術的なモデルやハイスペックモデルのマシンたち。過去においては日本においても数々のスーパーマシンといえるコンセプトモデルが各社から登場していました。数ある中から市販化が期待されながらも実現しなかった日本のスーパーカーシリーズのコンセプトモデルたちを振り返ってみました。
レース界で名を馳せていた日本のコンストラクター、「童夢」のコンセプトモデルとして登場しました。1960年代に京都府でレーシングカー・コンストラクター「マクランサ」を営んでいた「林みのる」氏がスポーツカー製造計画を立ち上げ、1975年に林の自宅で開発プロジェクトがスタートし、が1978年のジュネーブ・ショーで「童夢 零」を発表しました。ミッドに搭載されたエンジンは日産のL28型の直列6気筒SOHCエンジンを搭載しています。スーパーカーのエンジンとしてはスーパーとは言い難かったが、当時の国産エンジンとしては最強と言えるものでした。フレームはスチールモノコックでFRP製のボディを架装するという、当時では先進的な構造と言えました。
翌年の1979年、童夢 P-2が発表される。このモデルはサスペンションのウィッシュボーンはチューブからスチールプレスへと変更され、フロントバンパーも大型化され、取り付けも高い位置へ移動されましたが、取り付け位置を変更するだけでは全体のデザインに狂いが生じてしまうため、ボディパネルは新たにデザインされました。そのため、零とのパーツの互換性はないモデルです。
ヘッドライトの高さも修正されており、周囲のデザインも変更されている。タイヤはHR規格になり、リヤのサイズが変更され、これと同時にシャシーをスチール・モノコックから鋼管スペースフレームに変更し、インテリアも簡素化されるなど、コストダウンも図られました。
ホップアップ式のガルウィングドアは、零よりも少し外側に向かって開くよう変更されました。零ではオーバーヒートに悩まされたため、大容量のラジエターと2基の電動ファンがフロントに収められ、これによりラゲッジルームはなくなっています。「童夢」はル・マン24時間レース参戦のためレーシングカー製作に傾注することになり、「P-2」の市販化計画は立ち消えになってしまったということです。
「日産:MID4」は、1985年のフランクフルトショーでワールドプレミア(世界初公開)されました。だが、実際には「WRC(世界ラリー選手権)」のグループSでの活躍を念頭に開発されたプロトタイプといえるモデルです。
その名が示すとおり、エンジンはミッドシップ搭載されています。ただし、そこからプロペラシャフトが前に伸び、前輪も駆動する4WDとされていたことが、ラリーを強く意識していたことを示しています。
パリ~ダカールで「ポルシェ911・4WD」として活躍し、のちに「ポルシェ・959」として登場したように、ヘビーデューティさも売りになっていました。
そしてこの「日産:MID4」は、のちに「日産:MID4 II」へと進化することになるのでした。
1985年に登場した日産の「MID4」は、大きなインパクトを与えました。そして2年後、1987年の東京モーターショーでは進化版の「日産:MID4 II」として再登場しました。
ベースは初代と同じでしたが、横置きだった「VG30DE」ユニットは縦置きとなり、ツインターボ化されました。さらにラジエターの位置も初代モデルではフロントでしたが、「日産:MID4 II」ではサイドに変更され、タイヤも前後異サイズとなり、よりスーパーカーらしくなったと言えるモデルでした。
市販を期待されたものの、北米での販売が見込めないという日産の判断から、見送りとなっています。
1988年、服飾メーカーのワコールの出資で設立された「ジオット」の企画のもと、童夢が開発と製作を行って誕生したスーパーカーが、「ジオット キャスピタ」です。
エンジンは、F1のエンジン製作も行っていたレーシングエンジン専門会社「モトーリ・モデルニ」と「スバル」が共同開発した、「1235」と呼ばれるF1用3.5L水平対向12気筒エンジンの搭載が企画されました。
しかし、「1235」型エンジンがF1で不振のため「スバル」が撤退し、その後、「ジャッド製V型10気筒エンジン」搭載のための設計変更などを余儀なくされました。それでも、けっきょく2台が完成したものの市販には至らなかったモデルです。
日本の名車とされる「コスモスポーツ」でロータリーエンジンを実用化していた「東洋工業(現・マツダ)」が、1970年の第17回東京モーターショーに出展したのが、「マツダ・RX500」でした。
鋼管スペースフレームによって組み上げられたシャシに、FRPとABS・PCアロイのボディで構成されました。ガルウイングドア(正しくはシザーズドアか)も当時は大変なインパクトを与えていました。エンジンは「10A型ロータリーエンジン」で、最高速は200km/h以上とアナウンスされていました。
「RX500」は、「コスモスポーツ」の後継モデルとして企画・開発されましたが、残念ながら市販されることはなかったモデルです。なお、この「RX500」そのものはレストアを施されて、現在は広島市交通科学館に所蔵されているということです。
「いすゞ」社が1969年の東京モーターショーでお披露目したのが、「いすゞ・ベレット1600MX」でした。
ミッドに搭載されたエンジンは「G161W型DOHCエンジン」でした。これは当時「いすゞ・117クーペ」に搭載されていたものと同一エンジンです。
1.6Lながら10.3の高圧縮比とツインチョークソレックスキャブレターで120ps/14.5kgmを発生していました。
翌年の東京モーターショーでもより現実的な姿で登場して市販が期待されたましたが、残念ながら願いは叶えられることはなかったモデルです。