【アイルトン・セナ】1994年F1イモラGP事故死の経緯と真相

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【アイルトン・セナ】1994年F1イモラGP事故死の経緯と真相

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空前のF1ブームが日本を席巻していた1980年代後半から1990年前半。その人気を牽引したのは「音速の貴公子」の異名で世界的な人気を誇った「アイルトン・セナ」。「史上最高のF1ドライバー」、「史上最も影響力のあるF1ドライバー」として生前中は日本でも人気があった伝説のF1ドライバーです。今回の「TimeMachineMuseum」では、その最高のドライバーと言われた「アイルトン・セナ」が事故を起こした「悪夢の週末」、また「イモラの悲劇」と言われる1994年の出来事に注目します。


「アイルトン・セナという人物の経歴」

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本名は「アイルトン・セナ・ダ・シルバ」。1960年3月21日にブラジルのサンパウロ州サンパウロに誕生。幼いころから優れた運動神経を持ち合わせており、サッカー、体操をはじめ様々なスポーツを得意としていた。4歳になると「アイルトン・セナ」は、自動車とモータースポーツに興味を持ち始め、カートの運転を始めます。そして、7歳のころには所有地の農場で初めて自動車のジープを運転したようです。この頃、「アイルトン・セナ」はギアチェンジするときにクラッチを使わずにシフト操作することを覚えていたそうです。そして、13歳になると「アイルトン・セナ」は父親が製作した自作のレーシングカートでレースに参戦しています。初戦はライバルと接触しリタイアに終わっていますが、父親がレース活動をサポートしレース活動を継続。1977年に「アイルトン・セナ」は17歳で南アメリカ・カート選手権のチャンピオンとなり、1978年から1982年にかけて世界カート選手権に参戦。参戦中の1979年、1980年はシリーズ・ランキング2位の成績を残しています。実は1978年には日本で日本国内のカートレースの最高峰である「ジャパンカートレース」に参戦し4位入賞を果たしています。その後、結婚、離婚を経て1983年シーズンのイギリスF3チャンピオンを獲得。そして、翌年となる1984年の「アイルトン・セナ」が24歳の時にイギリスのレーシングチームであるトールマンからF1GPデビューを果たしています。


「アイルトン・セナのF1GPでの活躍」

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「アイルトン・セナ」はF1GPに参戦すると頭角を現し、ロータスF1チームに移籍し1985年ポルトガルGPで初優勝。初ポールポジション(モータースポーツの決勝レースにおいてスタート位置が最前列の一番内側の位置。通常は予選で最速ラップを記録したドライバーがポジションとなる)。

1987年にロータスは「アイルトン・セナ」の要望(エンジンパワーアップのためにホンダエンジン搭載の要望)からエンジンパワー強化のためにホンダエンジンを搭載。また1987年は日本人で初のF1GPレギュラードライバーとなった「中島悟」とチームメイトとなります。この年は、開発途上であったアクティブサスペンションの不具合頻発によってポールポジション1回、優勝2回というシリーズ戦績でした。それでも1987年の第15戦日本GPでは予選7位から決勝2位というフィニッシュでホンダに母国表彰台をもたらしたのでした。

1988年になるとホンダはマクラーレンとエンジン供給パートナーの提携を結び、これに伴って「アイルトン・セナ」はマクラーレンに移籍。この年は「アラン・プロスト」とチームメイトになりGPシーズンの戦績はマクラーレンホンダチームだけで16戦中15勝という驚異的な記録を打ち立てました。さらに第15戦日本GPで「アイルトン・セナ」は初のワールドチャンピオンに輝きました。この年の記念パーティではホンダの創業者だった「本田宗一郎」と出会い「来年も最高のエンジンを作ってやるから」と言われ涙を流したという話があります。

1989年は「アラン・プロスト」とチームメイトとなります。しかし、「アラン・プロスト」と結んでいた紳士協定(先に第1コーナーに進入した方がレースの主導権を握る)というものを「アイルトン・セナ」は赤旗中断から再スタートとなった直後に第2コーナーで「アラン・プロスト」を抜くという協定破りによってチームメイトの「アラン・プロスト」との関係が悪くなります。そして第15戦日本GPでは、最終コーナー手前のシケインで「アラン・プロスト」の右に無理に進入し接触。「アラン・プロスト」はストップしリタイア。「アイルトン・セナ」はレースに復帰し1位でフィニッシュ。しかし、レース後の審査で失格処分となりシリーズチャンピオンは「アラン・プロスト」に譲ることとなりました。1989年の二人の戦績は「アラン・プロスト」は4勝、入賞13回。「アイルトン・セナ」は6勝、入賞1回。また1989年、「アイルトン・セナ」は当時のFIA(国際自動車連盟)の会長から「危険なドライバー」とみなされ、スーパーライセンス発行拒否の危機に陥るまでに至っています。最終的に謝罪したことでスーパーライセンス剝奪は免れました。

1990年、「アイルトン・セナ」はシーズン6勝をあげ2度目のワールドチャンピオンとなります。

1991年は、マクラーレンホンダはV12エンジンのパワーで優れるも電子制御システムのアクティブサスペンションとルノーV10エンジン、空力に優れたウィリアムズルノーチームの「ナイジェル・マンセル」に苦しめられつつ、3度目のワールドチャンピオンを獲得しています。

1992年には、ウィリアムズに圧倒的な差で「ナイジェル・マンセル」がワールドチャンピオンに輝き、「アイルトン・セナ」はシリーズランキング4位に終わってしまいます。しかも、この年ホンダがF1参戦休止を発表。

1993年、マクラーレンはフォードエンジンを搭載。非力なパワーで厳しい戦いが予想されていましたが、ランキング争いを繰り広げる活躍でシリーズランキング2位という結果でした。ちなみに最終戦のオーストラリアGP後に「アイルトン・セナ」と「アラン・プロスト」は和解し握手しています。


「1994年シーズンのアイルトン・セナ」

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1994年シーズンは、マクラーレンチームからウィリアムズチームに移籍。この移籍によって「1994年のF1GPは、アラン・プロスト引退したこともありアイルトン・セナが圧倒的な勝利を見せるだろう。」との予想が開幕前には報じられるほどでした。しかし、その予想は大きく外れる結果となってしまいます。1993年までウィリアムズチームが最強システムとして搭載していたアクティブサスペンション、トラクションコントロールなどハイテク装備がルール変更によって1994年から禁止されたのです。この変更によってマシンのシャシーバランスが取れず「アイルトン・セナ」は第1戦ブラジルGP、第2戦日本GP(岡山パシフィックGP)は2戦ともにポールポジションを獲得しつつもスピンリタイア、続くGPも追突されてリタイアしています。「アイルトン・セナ」はハイテク禁止よってシャシーバランスが崩れたマシンについて「マシンをドライブすることなんてできないよ。マシンには空力的にドライブが難しい部分があった。パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていない」と第3戦の開幕前にコメントしています。開幕2戦後でノーポイントは「アイルトン・セナ」がF1GPにデビューして以来、初めてのことでした。そして、第3戦サンマリノGP。5月1日にイモラ・サーキットで開催されました。


「イモラの悲劇の初日:予選」

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「アイルトン・セナ」がクラッシュした1994年5月1日の出来事は世界中でニュースとなり、数か月にわたって様々なメディアで取り上げられました。この1994年5月1日は、イタリアのイーモラにある「イモラ・サーキット」でF1GPが開催されました。「アイルトン・セナ」はサンマリノGPについて「ここからが自らの開幕戦」と誓いレースに臨みます。しかし、サンマリノGPは波乱のグランプリでした。予選1日目は、「アイルトン・セナ」の同郷の後輩になる「ルーベンス・バリチェロ」が縁石に弾かれてしまい、230km/hのスピードでバリアに衝突。この事故を目の当たりにした「アイルトン・セナ」は自分のマシンを降りメディカルセンターへ。搬送された「ルーベンス・バリチェロ」は鼻の骨折程度で済んでおり、意識が回復したことを確認すると「アイルトン・セナ」はサーキットに戻りマシン走行をおこなう。その夜、ホテルに帰って恋人に電話でサンマリノGPの予選で起きた事故について話した際に「ルーベンス・バリチェロ」のことで泣き崩れたという。それでも翌日の予選2日目の走行では自己ベストのラップタイムを更新。そして、この日の午前中、「ルーベンス・バリチェロ」は無事に退院しています。しかし、予選2日目の午後にまたもや大事故が発生。2回目のセッションが始まって18分が経過したとき、シムテックチームの「ローランド・ラッツェンバーガー」が314km/hのスピードでコンクリートバリアに衝突。この「ローランド・ラッツェンバーガー」は、1994年の第2戦パシフィックGPでF1GPデビューを果たし、サンマリノGPは2戦目の参戦というルーキーでした。この事故で病院に搬送されたものの、即死の状態で33歳で命を落としてしまう。このクラッシュの衝撃は凄まじく強度の高いカーボンモノコックに穴が開くほどのものでした。このクラッシュはフロントウイングの破損が原因とされています。「ローランド・ラッツェンバーガー」はクラッシュの前にコースアウトしています。その際にフロントウイングに異常を感じなかったと思われ全開走行していくうちに取り付けがが緩み、速度が乗った状態でフロントウイングが外れ、マシンコントロール不能となった状態でコーナー進入するも直進しコンクリートバリアに激突。クラッシュについて知った「アイルトン・セナ」はメディカルセンターに向かいました。メンタル的に厳しい状況のために「レースを続行する必要はない。参加を取りやめるように」というアドバイスをもらっています。しかし、「アイルトン・セナ」は「レースをやめることは出来ない」と断り、ウィリアムズチームのブースに戻り、予選セッションも途中で切り上げています。そして、「アイルトン・セナ」は予選後の記者会見を欠席したこと、「ローランド・ラッツェンバーガー」のクラッシュした現場に向かう際にオフィシャルカーを運転したことについて、FIAとレース審査委員会から懲戒処分を検討されてしまいます。問題には結局ならなかったものの「アイルトン・セナ」は嫌悪感を表したそうです。


「続くイモラの悲劇:決勝」

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サンマリノGP決勝。予選において波乱含みの2日間を終え決勝当日。さらなる悲劇が起こります。まず決勝レースのスタート直後に衝突されたマシンの破片が観客席に飛び散り、複数の観客が負傷するという事故が起こってしまう。このためセーフティーカーが導入され5周に渡ってレースを先導。その間に散乱したパーツや破片など撤去作業が行われました。この時、「アイルトン・セナ」は加速してセーフティーカーの横に並び、先導スピードを上げるように指示しし、事態の収束のために力になります。6周目から再スタートとなりレース再開となります。「アイルトン・セナ」はレース全体で3番目に速いラップタイムを記録しながら周回していきます。この時「アイルトン・セナ」の後ろを走っていたドライバーは「コーナーの通過時にセナのマシンが激しく底打ちして火花が上がっていた」と述べています。そして、悲劇が起きます。コントロールラインを通過し7週目に入りタンブレロコーナーに差し掛かった時、「アイルトン・セナ」のマシンは通常の走行ラインから大きく外れ直線的にコースアウトし、コンクリートウォールに激突。このタンブレロコーナー進入時の速度は309km/h。その後、フルブレーキでタイヤロック。速度は211km/hに落ちるも直進状態でコンクリートウォールに衝突。右フロントのホイールやコーンが弾き飛ばされ、マシンはスピンしながら停止。空撮ではクラッシュした後、一瞬だけセナの首が動いた瞬間が映され、生きていることへの希望があったものの実際には脳損傷による身体の反応だったようです。クラッシュから数分後、医療スタッフが駆け寄り、救助するも頭部損傷、大量出血が目に見えた。その場で緊急気管切開が行われました。この手術を行ったのは「シド・ワトキンス」という26年間もF1の救急医療班の代表を務めた人物で世界的に有名な脳神経外科医です。後に「シド・ワトキンス」は、この「アイルトン・セナ」のクラッシュしたときの状況について「彼は穏やかな表情をしていた。まぶたを引き上げて瞳孔を確認すると、脳に大きな損傷があることが分かった。私たちはコックピットから彼を引き上げ、地面に寝かせた。そうしているときに彼は、ため息をついた。私は信心深い人間ではないが、その瞬間に彼の魂が旅立ったのだと感じた。」と述べています。この時は心肺停止状態ではなく病院の集中治療室に運ばれた後、心臓が停止。医師による心肺蘇生は成功したものの1994年5月1日18時37分、「アイルトン・セナ」は心肺停止状態となり、この時は蘇生処置を行わないことが決定され、34歳で「アイルトン・セナ」は亡くなってしまう。


「アイルトン・セナの事故後のレース」

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「アイルトン・セナ」がクラッシュしたあと37分後にレースは再開。結果は、中断された最初レースとの合算ポイントで争われることになり、「ミハエル・シューマッハ」が優勝。このサンマリノGPでは、クラッシュ事故で亡くなった「ローランド・ラッツェンバーガー」と「アイルトン・セナ」への配慮からシャンパンファイトは行われませんでした。そして、後に優勝者の「ミハエル・シューマッハ」はF1の安全性の改善を求めました。またサンマリノGPの次戦となったモナコGPではFIAは、「ローランド・ラッツェンバーガー」と「アイルトン・セナ」に敬意を表して、予選1位と2位グリッドを空席にし、そのグリッドにブラジル国旗、オーストラリア国旗をペイントしました。


「アイルトン・セナはイモラサーキットで予言していた」

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実は「アイルトン・セナ」は、1994年5月にサンマリノGPが開催される1か月前にテスト走行を行い、タンブレロコーナーでイモラ・サーキットの関係者に「路面に凹凸があり危険だ。ここで今年、誰かが死ぬ。」と話しており、実際の映像も残されているようです。


「セナの死因と世界の反応」

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死亡原因は、大破したマシンのパーツがヘルメットを貫通したことと判明しています。また「アイルトン・セナ」が亡くなったことが判明すると、当時のブラジル大統領が追悼談話を発表。国家が1994年5月2日から3日間、喪に服すことを宣言。そして「アイルトン・セナ」の遺体が入った棺の輸送は、輸送を担当したヴァリグ・ブラジル航空の方針に反して、特例としてファーストクラスの客室で輸送。「アイルトン・セナ」の棺はブラジル国旗で覆われ、「アイルトン・セナ」の弟と近しい友人たちが付き添いました。ブラジルのテレビ各局は通常番組を中断し「アイルトン・セナ」の死を伝え、事故の前日に録画された「アイルトン・セナ」の最後のインタビューを繰り返し放送。葬儀は国葬となり、ブラジルのテレビ各局が生中継し、「アイルトン・セナ」の故郷のサンパウロでは推定300万人の人々が通りを埋め尽くしたとされています。また多くのレース界の著名人も参列しており、「アラン・プロスト」や「ルーベンス・バリチェロ」、「ゲルハルト・ベルガー」、「ネルソン・ピケ」などが「アイルトン・セナ」の棺を担ぎました。国葬後はサンパウロのモルンビー墓地に葬られ、墓石には「NADAPODEMESEPARARDOAMORDEDEUS(神の愛より我を分かつものなし)」と刻まれています。この言葉の意味は、新約聖書の「ローマのクリスチャンへの手紙」に因むもので、「高さも深さも、ほかのどんな創造物も、主であるキリスト・イエスを通して示される神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8章39節)

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