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1976年に「FIA」は、それまで2座席オープントップのプロトタイプレーシングカーで競われていた「世界メーカー選手権」を、「グループ5・シルエットフォーミュラー」で競うことに変更し新たなカテゴリーが誕生しました。規定としては「台数400台(500台の資料もある)」の市販車のイメージを残すレーシングマシンで、より多くのメーカーの参加を目論んで創設されたものの「FIA」の願いとは裏腹に「ポルシェ・935」のワンサイドゲームとなり、決して成功したカテゴリーとはならなかったシリーズです。それでも、「シルエットフォーミュラ」の迫力あるマシンは、多くのファンを虜にしたのでした。しかし、「FIA」が1982年より車両区分の規定を一新したことから、世界選手権を戦う車両はクローズドボディのプロトタイプのレーシングマシンである「グループC」に移行し、カテゴリーとしては終焉を迎えることになりました。
日本国内においては1979年(昭和54年)から「富士グランチャンピオンレース(富士GC)」のサポートレースとして「富士スーパーシルエットシリーズ」(富士SS)が開始されることになりました。1982年(昭和57年)には、日産はR30型の「スカイラインRSターボ」、S110型の「シルビア」、910型の「ブルーバード」を投入していきました。国内戦においては、これら「日産ターボ軍団」と「BMW・M1」の激突で、富士や筑波サーキットで開催された「スーパーシルエット・レース」は大いに人気となりました。そして、今回は、「マツダ・サバンナRX-7シルエットフォーミュラ」に注目します。
「マツダ SA22C サバンナRX-7 GT 1983年式」:スペック・価格帯
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ベースモデルは初代サバンナRX-7(SA22C型)が用いられ製作された。もともとは後の「マツダスピード」となる「マツダオート東京」がル・マン参戦を目指して製作したマシン「マツダ252i」。製作コンセプトがル・マン仕様のため強大なダウンフォースを生み出すフロントスポイラーが付いていないのがほかのマシンと比べた際の特徴となっています。ボディ製作はムーンクラフトが担当。ロータリーエンジンは非力なA12型からパワフルな13B型に換装されており、多くのプライベーターたちがこのマシンでシルエットフォーミュラに参戦。
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マツダのロータリーエンジンがル・マンを初めて走ったのは1970年でベルギーのチームが「シェブロンB16」に「コスモスポーツ」に搭載された10A型ロータリーを搭載して参戦したのが最初でした。それ以降、シグマ・オートモーティブの「シグマMC73(1973年)」、「MC75(1974年)」が12A型ロータリーを搭載して参戦し、1975年には「マツダ RX-3」が地元ディーラーから参戦しましたが、ここまでは全てリタイアまたは規定周回数に及ばずという結果でした。しかし1979年、ついに「マツダスピード」が仕上げたマシンがル・マン参戦を開始することとなりました。その時参戦したのが「SA22C型:サバンナRX-7」に海外仕様の13Bを搭載、シルエットフォーミュラ仕様へモディファイした「マツダ 252i」だったのです。エンジンの最高出力はNA仕様で300PSというスペック。
1978年にデビューしたばかりのRX-7は、かつての「未来を担うエンジン」から「ガス食いの極悪燃費車」として評価が地に落ちていたロータリーの復権を賭けた1台で、耐久レースへの参戦は失敗のリスクを恐れたマツダ本社も乗り気ではなかったと言います。そこを押し切って参戦にこぎつけたものの、結果は予選での不調やドライバーの体調不良、そして天候にすら恵まれなかったのです。しかし、予選落ちの屈辱を味わったものの、この時の悔しさが後のマツダロータリーマシンの執念を生むことになりました。
1980年は、プライベートチームの「Z&Wエンタープライズ」からエントリーした12A型ロータリー仕様のSA22CサバンナRX-7はIMSAクラスで完走しています。
マツダ車としても、ロータリーエンジン車としても初のル・マン完走を成し遂げました。「マツダスピード」が再びル・マンに還ってきたのはその翌年、1981年のことです。
13B仕様のSA22Cをベースにした「マツダRX-7 253」でIMSA-GTOクラスに2台、前年完走したZ&WエンタープライズからもIMSA-GTUクラスに1台が参戦しました。
しかし結果はZ&Wエンタープライズ車は予選落ち、「RX-7 253」はギアボックスやデフのトラブルで、2台とも決勝をリタイアし、それぞれ2時間、10時間しか走れませんでした。
TWR(トム・ウォーキンショーレーシング)との共同チームでマツダ本社からも支援を受けた磐石の態勢のはずでしたが、ル・マンにおける良い結果は残せていません。
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1982年から従来のグループ6などに代わり、新しいカテゴリーであるグループCが登場しました。名車ポルシェ956などグループCマシンが過半数を占めたル・マンで、マツダは引き続きIMSA GTXクラスに2台の「RX-7 254」を参戦させます。「マツダ RX-7 254」は前年の「マツダ RX-7 253」に空力的リファインを加えたマイナーチェンジ版と言えるモデルで、事前に4,000kmにも及ぶテストを行い、「マツダ RX-7 253」からの熟成で信頼性は高まっているはずでした。
しかしル・マンでは2台のうち1台は燃料系トラブルでリタイヤ。残る1台を何とかゴールさせたいと願うも叶わず、ギアボックスのトラブルを起こします。
規定でアッセンブリー交換は認められないため、1時間24分に及ぶギアボックス内部の部品交換作業によるピットインを余儀なくされました。その後もパンクや燃料フィルターの目詰まりなどマイナートラブルに悩まされますが、どうにか完走。「マツダスピード」として初の完走に、奮闘したピットクルーへの「ベストメカニック賞」が贈られています。