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「マツダ」は、ロータリーエンジンの小型・軽量・高出力の特長を活かすために、「RX-7(開発コード:X605)」を開発することになり、1978年3月30日に「サバンナ:RX-3」の後継モデルとして、初代モデルとなる「サバンナ・RX-7(SA22C型)」がデビューしました。プラットフォームは、「マツダ・SAプラットフォーム」が用いられ、エンジンは「12A型」の水冷2ローターエンジンの自然吸気(NA)仕様を搭載しました。エンジンのポテンシャルは、最高出力:130ps / 7,000rpm、最大トルク:16.5kg・m / 4,000rpm、パワーウェイトレシオは、7.6~7.8kg/ps(ターボモデル:6.18kg/ps)でした。当時は、アメリカの「マスキー法(大気汚染防止法)」の影響を受け、ライバルであるトヨタ「セリカGT」や三菱「ギャランGTO」は、厳しくなる排ガス対策によるパワーダウンを排気量を大きくして補っていました。そのような中「マツダ」は、「REAPS」と呼ばれる排気ガスを再燃焼させるサーマルリアクター方式を採用し、従来に比べて40%の燃費アップを達成していました。1980年にエクステリアデザインのマイナーチェンジでテールランプとフロントスカートのデザインを変更しcd値0.34を達成しています。1982年には6piエンジンに変更を受け、10モード燃費は10.2km/lを達成しています。「マツダ」は、エンジンの出力向上よりも自社の技術を高く評価してもらえるように海外のスポーツカー市場を狙った戦略を考えていました。海外での販売開始は、1979年からでしたが、日本仕様もサイドブレーキレバーが左シート側に位置するなど、最初から左ハンドルを意識した設計となっています。「サバンナ・RX-7」のフォルムも、ロータリーエンジンのコンパクトさを活かした低いボンネットの先端に、「開閉式(リトラクタブル)」のヘッドライトを配置するという独特のものを採用しています。また後部を、曲面ガラスとしたデザインで『誰が見てもスポーツカー』という唯一無二のものとしていました。このときのキャッチコピーは『羨望(せんぼう)のRX-7』というものでした。そして、ハンドリングマシンとしてのポテンシャルは重量配分にあらわれており、50:50(50.7対49.3)に近く、海外でライバルとされた「ポルシェ・924」がフロントエンジンでトランスミッションをリアに配置することで前後の重量バランスを取っていたのとは違い、重量物を中心に集められるロータリーエンジンだから実現できたレイアウトであり、マツダも『Designed by Rotary』と謳っていました。
さらに軽量コンパクトを目指したシャシーは約1トンの車重に対して、最高出力:130PSを発生する573cc×2の12A型ロータリーエンジンとしたことで、少しの改造でサーキットではさらに速く走れるようにできることから、国内最速車として大きな人気を得ました。実際に1979年に海外でも発売された「サバンナRX-7(海外ではMAZDA RX-7)」は、1979年2月のデイトナ24時間レース・GTUクラスでの1-2フィニッシュに始まり、ライバルの「日産・フェアレディ 240Z」や「ポルシェ・911」と競いアメリカのモータースポーツで大活躍し、前人未踏のIMSA通算100勝という成績を残しました。その速さから「ロータリーロケット」と称され、マツダ自身も国内のカタログ表紙に「ロケット!」と表記したこともありました。1979年からは、ル・マン24時間スポーツカーレースにも「サバンナ・RX-7」は「RX-7・252i」、「RX-7・253」などで参戦しましたが、予選不通過や決勝リタイアが続き、結果としては「RX-7・254」で出場した1982年に総合14位での初完走に留まっていますが、1985年にはWRCアクロポリス・ラリーで総合3位に入賞、IMSA・GTUクラスで「ポルシェ」が保持していた単一車種最多優勝記録を更新するなど、モデル末期までレースの世界で高い評価を得ました。
一方、市販車においては、速さにとりつかれたマニアックなドライバーたちが「サバンナ・RX-7」を操り、その性能を確かめようとすると多くのリスクが眼の前に現れました。そのひとつが、もともとセダン向けのシャシーを転用したRX-7は、コーナリングの限界を超えた瞬間の挙動はプロドライバーでも手を焼くほどで、簡単にスピンしてしまうことから「テールハッピー」と呼ばれました。
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日本の自動車史に偉大な記録を残した、ロータリーマシンとして1991年に「ル・マン24時間レース」で総合優勝した「マツダ787B」が挙げられます。しかしその陰に隠れてしまっているロータリーマシンが存在していました。そのロータリーマシンのモデル名は、「マツダ:RX-7 254」というマシンです。「ル・マン24時間レース」の後、WECや富士1000kmレースなどに参戦した後、しばらく行方不明になっていたもの、今回約35年ぶりに発見され、レストアプロジェクトが立ち上がったのです。1982年に参戦した「マツダ:RX-7 254」のヒストリーとしては当時、マツダのモータースポーツ部門にして「ル・マン24時間レース」制覇のために活動していた「マツダスピード(旧マツダオート東京)」は、1974年に最初の「ル・マン24時間レース」を経験すると、準備期間を経て1979年から再挑戦しました。
マシンは「マツダ:サバンナRX-7(SA22C)」に13Bエンジンを搭載しシルエットフォーミュラ仕様へと改造した「252i」で、その後、度重なる改良を経て「254」へと進化させました。当初は惨憺たる戦績だったということです。予選落ちに始まり、決勝にこぎつけてもマシントラブルでリタイアばかりだったということです。ヨーロッパ最高峰の壁を、まざまざと見せつけられる結果となったそうです。しかし、負けても諦めることなく挑戦し続け、初めて結果に表れたのが1982年でした。この年、マツダは2台の「254」をエントリーさせました。「寺田陽次郎/従野孝司/A・モファット」が走る82号車に加え、「トム・ウォーキンショー・レーシング」とのコラボとして「T・ウォーキンショー/P・ラベット/C・ニコルソン」が乗る83号車が参戦しています。
いかにロータリーとはいえ排気量の小さい「13B(1308㏄)」エンジンはパワー不足でした。しかし82号車はミッションや燃料系のトラブルを克服して完走を果たしています。83号車は燃料系のトラブルでリタイアしたものの、一時は総合8位を走るという快走をみせました。
「ポルシェ・956」で黄金時代を築き上げつつあったポルシェ勢を筆頭に、百戦錬磨のトップチームたちに比べたら、確かにマシントラブルは多かったのは否めません。
しかし、チームとしてベストメカニック賞を受賞しています。優勝が非現実的となった瞬間に走ることをやめていく行為は、合理的で洗練された活動かもしれません。しかし、それとはまるで正反対の、泥臭くて不器用だけど「何が何でも完走してやる」という強い意志の感じられる活動だった。
その不屈の精神こそが9年後の「ル・マン24時間レース」総合優勝を支えたのでしょう。そして、ヨーロッパのメーカーでさえ諦めていた、ロータリーエンジンの可能性を示唆したのでした。そして、レストアプロジェクトの対象としての個体は当時の83号車だということです。
「ル・マン24時間レース」を経験したのちに帰国し、WECや富士1000㎞などに参戦したものの、その後は行方不明となっていたということです。カーボン製ボディパーツを自社で設計生産するプロコンポジットが手に入り、代表の「伊東正人」氏は事あるたびに「やるからには最高峰から攻める」とコメントしています。
その言葉どおり、「ランボルギーニ」のボディパーツを開発し、スーパートロフェオなどレース活動も続けています。
そうした意味で、最高峰から攻めて実際に結果を残した「254」には深く共感するのでしょう。
レストアプロジェクトによって完調を取り戻してふたたび往年のロータリーサウンドを世に轟かせる時を待ちたいと思います。