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『ワイルドスピード/スーパー・コンボ』の監督デヴィッド・リーチが、ダカール・ラリーの唯一の女性優勝者であるユタ・クラインシュミットの伝記映画を製作する。ダカール・ラリーは、パリからセネガルのダカールまでを走る競技として1978年に初回が開催されて以来、70人以上が命を落とすほど世界一過酷なレースとしても知られているが、モータースポーツ界で最も名誉あるタイトルの1つと考えられている。ドイツ出身のユタは18歳で初めてバイクを購入、その後BMWに就職するが1992年にモータースポーツに専念するため退職、1997年に女性として初めて同ラリーの1ステージ首位を記録した後、15年の努力の末、2001年に遂にレース優勝を飾った。
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(Jutta Kleinschmidt, 1962年8月29日)は、ドイツ出身の女性ラリードライバー。
ドイツ、ケルン出身。オーバーバイエルン、ベルヒテスガーデン育ち。元は1987年から1992年まで2輪選手として、1996年まで史上初の2輪と4輪のクロスカントリーラリーの選手となる。
1997年には4輪に専念し、ダカール~アガデス~ダカールラリーに出場、総合5位となる。1999年に三菱のワークス・チームであるラリーアートに加入しグラナダ~ダカールラリーに出場、総合3位となる。2000年にパリ~ダカール~カイロラリーに出場し、総合5位となる。2001年にはパリ・ダカールラリーで初優勝を果たした。
2004年にはダカール・ラリーへのワークス参戦を開始したVWに移籍するが、2006年を最後にVWから契約を打ち切られたため、2007年はBMWから参戦。しかし2008年はダカール・ラリーそのものが中止となり、2009年は参戦を見送っている。
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フランス人冒険家ティエリー・サビーヌの発案により1978年から例年1月に開催されているラリーレイド競技大会である。アモリ・スポル・オルガニザシオン (A.S.O.) が主催。「世界一過酷なモータースポーツ競技」とも言われている。
1979年に始まり毎年行われているラリーレイド大会であり、1981年より国際自動車連盟(FIA)と国際モーターサイクリズム連盟(FIM)の公認イベントとなっている。世界三大レース(モナコグランプリ・インディ500・ル・マン24時間レース)に比べれば開催回数は少ないが、それらに同じレベルの規模・知名度を誇っており、モータースポーツ/ラリー(ラリーレイド)を代表するイベントのひとつとなっている。
以前は、例年1月1日(前年の12月末に始まることもある)にフランスの首都・パリからスタートし、スペインのバルセロナからアフリカ大陸に渡り、セネガルの首都・ダカールまでのおよそ12000 kmを走ることで知られていたが、2009年からは南米アルゼンチンの首都ブエノスアイレスからチリを回る周回コースに、2012年からはペルーを加えた3カ国を通るルートとなった。また2019年はペルー、2020年はサウジアラビアのそれぞれ1カ国のみとなっている。
かつてのヨーロッパ-アフリカ大陸時代は、途中ほとんど集落や救護施設のないサハラ砂漠を縦断する過酷な競技なため、出場者の5割以上がリタイアする大会も珍しくなく、アフリカ大陸時代は年によっては死者が発生することもあった。競技区間には、西サハラなど政治的に不安定な国が入っていることも「世界一過酷」と呼ばれる由縁であった。それ故、「全ての完走者が勝者である」という言葉が出場者全員の共通の認識となっており、最終日のレースは「ビクトリーラン」と呼ばれている。