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1980年代は日本の自動車業界で「パワーウォーズ」と言われる、エンジンパワー競争が激化し、各社が「ターボチャージャー」、「スーパーチャージャー」と言った過給機、エンジンの多バルブ化、DOHCなどに加え、ボディの空力面でも向上が図られた時代。その初期から時代を牽引していったのが「日産・スカイライン」と言っても過言ではないかもしれません。中でも「R30型スカイライン」は、まずDOHC4バルブエンジンの「FJ20E」エンジンを搭載し「RS」を登場させました。その後、ターボチャージャーを装着し「ターボRS」、インタークーラーを追加し「RSターボC」も登場。点火系にプラズマスパークモデルも登場させることになります。いずれもイメージカラーは、「赤/黒」もしくは「黒/銀」の2トーンカラーです。実は、「赤/黒」のボディカラーについてですが、サーキットにカムバックする「R30スカイライン」の「スカイライン・スーパーシルエット」が採用したカラーが市販車に投入されることになっていたのです。この「赤/黒」カラーは、インパクトのあるカラーでシルエットフォーミュラのコーナー進入時に減速した際に吹き出すアフターファイアによるサイドマフラーから炎は、多くの車好きを魅了しました。では、今回は日産がシルエットフォーミュラによってサーキットに復活させた「スカイライン・スーパーシルエット」のヒストリーを振り返ります。
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1970年代の日本は、モータリゼーションとモータースポーツにとって耐乏の時代だったと言われている。新宿牛込柳町交差点の排ガスによる鉛汚染問題に始まり、オイルショックをはさんで「世界一厳しい」昭和53年排ガス規制を克服しなければならず、走りの性能に対する欲求を一切断ち切らなければいけなかったからです。もちろん、多大な予算と人材の投入が要求されるメーカーのモータースポーツ活動も、自粛という形ながら、手控えることを強いられていた。それどころか、マイナス視点でとらえられがちなモータースポーツは、いたずらに金銭を浪費し、排ガスと騒音をバラまくだけの、反社会的行為と見なされることも少なくはなかった。しかし、具体的な規制値の発表時には達成不可能と思われていた昭和53年排ガス規制も、数年にわたる研究開発が成果を結び、1970年代終盤にはなんとかクリアできるまでになっていた。こうして排ガスの浄化という、非常に大きな社会使命を果たしたことで、自動車は再び走りの性能を追い求めることができる環境を手に入れたのである。直接的にいえば、性能解禁、モータースポーツ解禁ということで、とくに日陰を歩むようにして数年間を耐えてきたメーカー系のモータースポーツ部門にとっては、ここぞとばかりに鬱積を晴らすチャンスであった……。しかし、実際にはどのメーカーも、人材を排ガスの研究対策部門に奪われ、モータースポーツ部門は有名無実の存在となっていた。このことは「レースの日産」と異名をとった日産自動車でさえ例外ではなかったのである。
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日産もまた排ガス対策のため積極的なレース活動ができず、1970年代中後半はカスタマーサービス担当の宣伝3課・大森分室が、自社ユーザーの活動支援を行うだけで苦しい状況だったようです。ただ、このユーザー層には旧日産ワークス系のドライバーが率いるチームも含まれ、日産車によるレース活動はなんとか保たれていました。一方、日本のモータースポーツ界が雌伏を強いられていた1970年代後半は、世界的に眺めると、グループ6のスポーツプロトによるメイクス選手権が低迷する時期にあった。不人気の理由が車両規定にあると考えたFIA(国際自動車連盟)は、グループ5規定をシルエットフォーミュラ化し、これによるメイクス選手権の成立をはかろうとしたが、不発に終わっていた。追従するメーカーの数が少なかったからです。しかし、メイクス選手権では見送られたシルエットフォーミュラのアイデアは、迫力あるレースシーンからしばらく遠ざかっていた日本のモータースポーツ界には、再起のための魅力あるカテゴリーとして映る。そして、前向きにその導入が進められることになったのです。
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1970年代初頭からレーシングターボ(510ブルーバード)の基礎研究に取り組んできた日産にとっては、その後の710バイオレットやPA10バイオレットで積み重ねたノウハウも豊富にあった。それだけに、シルエットフォーミュラによる新たなカテゴリーの創設は、待ちわびたレースの到来となっていた。当時日産ワークスの流れをくんでレース活動を展開していた有力プライベーターは3チーム。セントラル20の柳田春人、「日本一速い男」といわれた星野一義、そして天才・長谷見昌弘で、彼らもまたインパクトのある新しいレースの登場を待ち望んでいたのだ。それだけにシルエットフォーミュラの導入は、魅力的で可能性にあふれたものとして映っていた。メーカーとエントラントの間に、強い需要と供給の関係が生じたわけで、かつてのように「日産ワークス」という具体的な実動部隊はなかった。そのため、「量産車ベースのレーシングカーなら宣伝効果が見込める」という判断から、宣伝部が予算を持ち、特殊車両課がターボエンジンを開発し、これをプライベート3チームが走らせる、という構図が生まれていた。こうした構図は組織系統が煩雑になり、レース活動には一元化した組織が必要との判断により、1984年にモータースポーツ専門の組織「ニスモ」が誕生することになった。
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1979年に始まるグループ5によるスーパーシルエットレースは、バイオレット(柳田)、シルビア(星野)の順で参戦を果たし、1981年になって戦力の見直しが検討された段階で、新たな車両の製作が決定する。このきっかけとなったのが長谷見の参入で、宣伝効果も見越した結果、スカイラインを使用車種とすることが決まった。車両製作はノバエンジニアリング、カウル製作はムーンクラフトが担当。
違いについては既にデビューしていたシルビア(KS110、のちにS12風カウルに変更)だけが、PA10系の流れをくむリジッドリンクのリアサスペンションを持っていた。
長谷見が選んだスカイラインは1982年5月の筑波戦でデビュー。市販車唯一の4バルブDOHCエンジンをラインナップするR30型のボディ外皮を持つ車両で、その注目度は他の2車より高く、赤と黒の2トーンカラーも非常に斬新なものだった。実はこのカラーリングが、1983年2月に登場する市販車であるRSターボのイメージカラーとなる。ファンにスカイラインを強くアピールするため、スーパーシルエットで先行試用したといういきさつを持つものだった。
スカイライン/シルビア/ブルーバードの日産シルエットトリオは、基本的には同じメカニズム(シルビアのみリアサスが異なる)を持っていたが、戦績的にはスカイラインが一歩抜け出ていた。スカイラインは1982〜84年の3シーズンで19レース(うち1戦は中止)に参戦。そのうちの8戦で優勝し、表彰台は12回を数えた。ただし、リタイアも6戦あり、その強さはオール・オア・ナッシングの特性をみせていた。
しかし、このスーパーシルエットはお世辞にもドライバビリティーやハンドリングに優れた車両とはいい難く、直線こそ570psのターボパワー全開だったが、コーナーはゆっくりと丁寧に曲がるしか方法がなかったという。もっとも、これがケガの功名となり、コーナー手前では、サイドマフラーから派手に炎を吐き出した。その様子が予期せぬギャラリー効果を生み、爆発的な加速力と合わせてまたたく間にファンを魅了、スーパーシルエットを熱狂と興奮のるつぼにたたき込んでいた。
直線番長のスーパーシルエットだったが、その後、追浜と東京R&Dのコラボにより生まれた、世界で唯一となるフロントエンジンのグループCカー「スカイラインターボC」。この希少な存在もまた忘れることはできない。
FIAグループ5に準拠するシルエットフォーミュラとして企画され、1980年代初頭のサーキットを暴力的な加速力で駆け抜けた。その壮絶な姿にファンは思った。これこそ「史上最強のスカイライン」。
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エクステリアデザインは圧巻の前後スポイラーとワイド化されたボディ。エンジンはレース専用設計のLZ20B。すべてがスペシャルマシンとして製作されたレーシングカー「スカイライン・スーパーシルエット」。今回は後期型の鉄仮面仕様のモデルに注目。
超大型のフロントリップスポイラー。車体の浮き上がりを抑えることだけに主眼が置かれたシルエットフォーミュラらしい空力パーツ。ターボパワーのすさまじさを物語る1デバイス。
オリジナルのスカイライン(DR30)に対し、ボディの拡幅分は約300mm強。片側150mmとなるが、この分はすべてトレッドの拡大、タイヤのワイド化によるもの。
リアのダウンフォース対策は2重3重で手が打たれていた。リッドスポイラーに大型リアウイングを組み合わせ、これでなお不足とサブウイング(1984年筑波戦仕様)も追加。
搭載するエンジンはLZ20B型の後期仕様(2139cc)。装着タービンユニットはギャレット・エアリサーチ社製のT05B型。2Lの排気量に対しては大きすぎるタービンサイズだが、ひたすらピークパワーを求めていた当時の流れからは必然の選択肢。最終仕様では570ps/55.0kg-mのパワー、トルクを発生。大径タービンを使いピークパワーを狙った結果、パワーバンドは極端にせまくなり、6000rpmから8000rpm手前までの実質1700〜1800rpmぐらいが有効ゾーンだったという。
タコメーターのスパイ針は7000rpm近辺、ブースト計は1.5kgf/cm^2あたりを上限とする仕様からも分かるように、それほど高回転、高過給の設定ではなかった。コクピット回りを構成するフレーム材が、角チューブと丸チューブから成っていることに注意。剛性、重量から見れば丸チューブが正解となるが、ここでは製作時間の短縮が可能な角チューブが選ばれていた。フレームの製作はノバ・エンジニアリングが受け持った。
フロントサスペンションは直立ストラット式。キャンバー/トー剛性を考えれば不利な方式だが、エンジンベイのスペースからこの形式が採用された。
リアはダブルウイッシュボーン方式だがフレーム側のピボット位置が高く、大きく下反角のついたハーフシャフトを見ても分かるように、必ずしも理想的なベストのジオメトリーとはいえない構造を採っていた。