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【令和に残す昭和~平成の名車】スバル・初代レガシィのヒストリー

【令和に残す昭和~平成の名車】スバル・初代レガシィのヒストリー

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社内開発コードは44B。開発テーマのひとつに掲げられたのは「世界に通用する走り」だった。 レオーネ時代、おもに当時の自動車メディアから酷評されたアスファルト上でのハンドリングの悪さ(過度なアンダーステア)と、エンジンパワー不足を大変革。販売面でも大人気を博し、当時のスバルの経営立て直しにも大貢献。WRCでの初優勝や10万キロ世界速度記録の達成など、名実ともに世界トップレベルに達した実績でも名車の誉れが高いが、走りの大改革の源泉はモータースポーツにあった。初代レガシィの走りの良さを紐解くには、やはりSUBARUのラリー参戦活動の歴史を振り返る必要がある。70~80年代の前半頃のSUBARUのモータースポーツ活動は、おもに旧富士重工業の群馬の実験部が関わっていた。ラリーのなかでもとくに耐久性の高さが求められるイベントにスポット参戦し、極限的な状況下で得られるデータを市販車にフィードバック。レオーネの悪路走破性能や機械的信頼性の向上に活かされてきたが、80年代の中盤からその目は世界を向くことになる。SUBARUモータースポーツ活動の大レジェンドである小関典幸さんや、小関さんに抜擢されてラリードライバーや監督として活躍した高岡祥郎さん、そして、のちにSTI初代社長となる久世隆一郎さんらの思いがひとつになって「世界の走り」を目指すようになり、次世代モデルであるレガシィの開発コンセプトに大きな影響を与えた。

86年から「富士重工」のエントリー名でサファリラリーに参戦し、実験部ではなく「メーカー(ワークス)」として世界レベルのモータースポーツに参戦することでブランドイメージを向上させたい。そんな思いが具現化されたのが初代レガシィだったのだ。それまでのレオーネ時代は悪路走破性能の高さでは定評があったものの、舗装路での高速走行時の安定性やハンドリング性能の評価は芳しくなく、ほかの日本車の高速走行性能が著しく向上していくなか、販売面で苦戦を強いられた。多くの自動車メーカーが巨額の利益を出していたバブル経済期にもスバルは赤字を出し続けるという惨状に陥る。そこで走行実験部門のエンジニアたちは、前述した往年のモータースポーツチームからの要望を受け、レオーネの走りをすべて刷新する大改革をはかる。初代レガシィでの走りの大改革に深く携わった小荷田守さんと高橋保夫さんは、小関典幸さんの指導のもとでシビアな走行・耐久テストに明け暮れた。浅間山のダートコースや、当時はまだ未舗装だったエビスサーキットをブルーバードやファミリアなどの他社のクルマで走ると、当時のSUBARU車よりも速くて安定していることにショックを受け続けたという。

当時のスバル車との決定的な違いは動力性能で、スバルは悪路走破性を重視するあまり、高速域で求められる動力性能の向上が遅れ、シャシーの性能も高速走行時代についていけない状態だった。小荷田さんは「サンバーやドミンゴなどの小型車にも効率の高い本格的な四輪駆動システムを装備するなど、四輪駆動の性能ではどこにも負けない自負はありましたが、速さでファミリアのターボに負けたことで、もっと良いクルマを作らねば! と心に火がつきましたね。当時の悔しさとショックが、のちの初代レガシィや初代WRXの痛快な走りにつながりました」と語る。この時代の挫折や苦難がのちの新世代モデルで昇華するためのパワーとして蓄えられたのだ。動力性能の低さを克服すべく既存のモデルにターボを装着した試作車が数多く作られ、レオーネにもターボ装着モデルが設定されるようになったが、納得できるクルマにはほど遠かったという。走行安定テストを担当した高橋保夫さnは、「ジャスティにターボをつけたことがありましたが、シャシー性能がまったくついていけず、真っ直ぐ走らせるのに苦労しました。小関さんの指示で時速200km以上出せるレオーネも作りましたが、時速200km出すことはできても安定性が確保できず、運転中は尋常ならざる恐怖との戦いです。まばたきをする一瞬さえ恐ろしいという、寿命をすり減らすような思いで走行テストを繰り返しました。レオーネのターボにインタークーラーが最後までつけられなかったのは、シャシーのキャパ的に当時のパワーが限界だったからです」と、シャシーを抜本的に見直す必要を痛切に感じたという。

そこで、レオーネに代わる新世代モデルのレガシィでは車体剛性を大幅に向上させた。新世代モデルの性能の高さを証明するべく、SUBARUブランドの底上げするために設けた組織、STI創立イベントとして「レガシィ10万キロ速度記録達成」を実現。小荷田さんも高橋さんもドライバーとして参加したが、時速240km以上で巡航しても辛いのは暑さと眠気だけ。「この速度域で走ってて眠くなるなんて、ウチのクルマは何て良くなったんだ!」とテスト中に感動し続けたという。初代レガシィは、80年代に低迷していたSUBARUの救世主となった。赤字を増やすことも辞さず栃木にSKCというテストコースを作り、プラットフォームもエンジンもすべて全面刷新。当時のSUBARU社内では、走行性能を高めたいとの意識の高まりにより、走り向上のための企画やアイディアは多少コストを度外視してでも採用されるケースが多かったという。

スバル360やスバル1000の開発時の黎明期の雰囲気が蘇ったともいえる素晴らしい時代で、ここからSUBARUは走行性能開発の黄金期を迎えることになる。初代レガシィは、セダンでは10万キロ速度記録達成やWRC初優勝などの偉業を達成。

ワゴンでは、商用ライトバンとはイメージを決別させる「ツーリングワゴン」ブランドを築き、一世を風靡した。四駆なのに、アスファルトでも良く曲がってスポーツカー的な走りが楽しめる。しかもユーティリティ性が高い。走りの深さを語れるドライバーズカーとして、今もその伝統は受け継がれている。

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