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破竹の49連勝という金字塔を打ち立てスカイライン伝説を築いた「スカイラインGT-R(KPGC10 / PGC10:ハコスカGTR)」、そして「S20型」エンジンを搭載し、「GT-R」のバッジを与えられながらも大きくなったボディ、排ガス規制、「マツダ」のロータリー搭載マシンの台頭などによってモータースポーツへの参戦はおろか、わずか197台ともいわれる生産台数から幻ともいわれた2代目「GT-R(KPGC110:ケンメリGTR)」のあと、「GT-R」登場の噂はあっても実現しないまま時代は過ぎてしまっていました。その間、スカイラインは「ターボ」の搭載、「DOHC」の熟成、サスペンションシステムなど電子制御の精度向上などによって「GT-R」の復活に向けてことを進めていました。そして、「昭和」が終わった1989年(平成元年)に8代目の「スカイライン」へのモデルチェンジとともに、3代目「GT-R(BNR32)」が登場しました。「ATTESA E-TS」、「Super HICAS」といった当時の最新デバイスに加え、エンジンに専用設計された「RB26DETT型」を搭載していることに加えて、「R32 GT-R」は、「日産・フェアレディZ(Z32型)」、「インフィニティ・Q45(G50型)」とともに、日本初の300PS車としてトリオで発売される予定でした。しかし、当時の諸事情により実施された自動車馬力規制により、いずれも日本向けは280PSとされてのデビューとなっていました。
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専用開発された「RB26DETT型」エンジンの排気量は、2.6Lという当時としては“中途半端な”排気量設定がされていますが、これは当時のグループA規格で行われていた日本のツーリングカーレースの最高峰、「全日本ツーリングカー選手権(JTC)」のレギュレーションに対応させたことが理由でした。いわば、レースで勝利するために開発された市販エンジンだったのです。しかも「ハコスカ/ケンメリ」の「S20型」エンジン同様にモータースポーツ参戦を前提に開発されていたものであったため、市販車の平均的な水準をはるかに上回るエンジン強度を誇り、出力も280PS/36kgf·mを達成するなど非常に強力なエンジンとなっています。ちなみに「RB26DETT」の意味は、Response Balance 2600cc DOHC Electronic Twin Turboの英字の頭文字をとった言葉です。
足回りも「ATTESA E-TS」・「Super HICAS」を搭載し、FRから4WDとなっており、ATTESA E-TSは、基本的には後輪を駆動させ、前後4輪の車輪速度センサにより、トルクを前輪に0:100 – 50:50の範囲で配分するためコーナリングでは、後輪駆動車のような走りが可能となっていました。なお、エクステリアデザインにおけるGT系の標準モデルとの違いは、専用16インチアルミ鍛造ホイール、前後フェンダーの拡幅化、アルミ製フロントフェンダーおよびアルミボンネット採用、フロントグリルの追加、専用フロントバンパー、専用リアウィングが挙げられます。
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1990年にはグループA参戦マシンのホモロゲーション用モデルとして500台限定で「GT-R NISMO」が発売され、同年より「R31型:スカイラインGTS-R」に替わり参戦した全日本ツーリングカー選手権においてデビューウィンを果たしました。参戦初年度でありながら、年間を通してカルソニックスカイラインを代表とする「GT-R」の強さを印象付け、世界中で最強を誇っていた「フォード・シエラRS500」を全日本選手権から駆逐し日本国内のみならず、日本国外の自動車レースも席巻しました。なんとレースの戦績は、1990年の初戦からJTCというカテゴリーが終了する1993年まで無敗を誇り、最終的に29連勝という偉業を成し遂げています。
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当時は、ドライバーとしてドリキンこと土屋圭市氏がグループAで活躍したR32GT-RのSTPタイサン仕様。そのレプリカが中古車として登場していました。