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ヤンキー漫画の金字塔とも言われる「疾風伝説 特攻の拓(かぜでんせつ ぶっこみのたく)」。この漫画でバイク好きになったり、旧車や名車、改造パーツやメーカーなど、あらゆるバイク知識に興味も持つようになった方も多いのではないでしょうか。また、仲間の絆についても考えさせられる漫画です。その「疾風伝説 特攻の拓(かぜでんせつ ぶっこみのたく)」から登場するキャラクターと愛車に注目してみたいと思います。今回は、「高遠 陸夫(たかとう りくお)」の愛車「ハーレーダビッドソン・スポーツスター」に注目です。
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主人公は、県内で中の上の私立横浜港ヶ丘高校に通う1年生の浅川拓。彼は、学校では典型的ないじめられっ子のポジションを確立していました。その為、学校はただの辛い場所だと日々思っていました。ところが3学期のある日、後の拓の人生を変える転機が訪れます。それは、転校生の鳴神秀人との出会いでした。そこからその後、内部抗争が絶えない不良のふきだまりの私立聖蘭高校、通称「乱校」の1年D組に転校することとなる。話の流れで「爆音小僧」のメンバーとなります。最初の愛車は1980年代のバイクレーサーでありキングケニーとしてロードレース界で有名だったケニー・ロバーツからケニー・ロバーツ号こと「ヤマハ・FZR250R」でした。その愛車は乗り換えていき、ミラクルのバイクテクニックとケンカや友情で高校生活が大きく変わるという流れ。
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「灰色の亡霊(グレイ・ゴースト)」の正体。「鮎川真里(マー坊)」、「秋生」、「半村晶」と同じ「港洛中」出身で、「県立商業高校」の1年。族でもヤンキーでもないが、自分のスタイルを確立させており、特に暴走りには強い拘りを持つ。明るく気さくな性格だったが、クール・Dの知人の海兵が残した「ハーレーダビッドソン・スポーツスター」に乗るにつれ、いつしか取り憑かれたようにそのスピードに魅せられ、灰色の亡霊(グレイゴースト)と呼ばれるようになる。愛車は「ヤマハ・XT225W」、横須賀米海軍基地所属の海兵所有のレース用の「ハーレーダビッドソン・スポーツスター」。
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単車乗りを連続で襲うライダー。その手口は、霧か雨の夜を走る単車の背後でさかんにアオり、振り向くかブチ抜いたライダーを事故らせる、というもの。元々、横浜には古くから”灰色の亡霊”の伝説があり、灰色の単車を駆る”スピードに取り憑かれた者”が単車乗りを次々と弾き飛ばしていたという。拓達の世代では”灰色の幽霊”と呼ばれた者は、天羽、優理と「高遠陸夫」の3人。
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「ハーレーダビッドソン」の伝説のマシン「XR750」。このマシンは1970年代から2010年代にかけてAMA(アメリカン・モーターサイクリスト・アソシエーション/米国のレース団体)のダートトラック・シーンで活躍。そして、この「XR750」は1960年代後半には天才ライダー、「ケニー・ロバーツ」要するヤマハ、80年代から90年代にかけては「リッキー・グラハム」や「ババ・ショバート」が駆るホンダを向こうにまわし、タイトル争いを展開したマシンです。一時期、ジャパニーズ・バイクに王座を明け渡したことがあったものの、1994年から2016年までは22年もの間、チャンピオンに君臨していました。この実績が「世界で最も成功したレーシングマシン」と呼ばれる所以で、そのテクノロジーを惜しげもなく投入し、市販化に踏み切られた忘れられないモデルが「ハーレーダビッドソン・XR1000」です。ダートトラックの世界で絶対的な実績を誇るハーレーダビッドソンですがロードレースの世界においても1967年に「KR-TT」を開発し、1968~1969年には「カル・レイボーン」のライディングによってフロリダ州のデイトナ・スピードウェイで開催されたアメリカを代表するレースである「デイトナ200」で優勝した過去を持つのですが、その後、復活の狼煙をあげるのが1983年に同サーキットで開催された「BOTT」でした。「バトル・オブ・ザ・ツイン」と呼ばれるこのレースは「1000ccクラスの市販車・二気筒エンジンまで」というレギュレーションの元で開催。そして、この「BOTT」のために開発されたモデルが「ハーレーダビッドソン・XR1000」です。
この「ハーレーダビッドソン・XR1000」はホモロゲーション(レース出場の認証)をクリアすべく1983年に1018台、翌年には759台のみが出荷されたいわゆる限定モデル。また「ハーレーダビッドソン・XR1000」のポイントの一つが、「アイアン・スポーツスター(1957年から1986年まで生産された鋳鉄ヘッドのスポーツスター)」エンジンの腰下に、レーシングマシンの「XR」のヘッドを組み合わせたエンジンの存在がクローズアップされることが多いのですが、実際の開発は1983年から85年まで生産された「XLX61」のシャシーが開発が優れていた。それまでの「CR」タイプのフレームだと鋳鉄ラグとロウ付け、アーク溶接で構成されていたフレームが、プレス構造のガセットと全アーク溶接タイプとなったことにより剛性が向上。「CR」タイプだとフルパワーをかけると車体に『捻じれ』が生じたそうですが、この当時の新型フレームはそうしたネガティブな部分を解消されるに至ったということです。この通称「EVO」タイプのフレームは、完成度の高さから2003年にスポーツスターがラバーマウント化されるまで20年に渡り採用され続けることになりました。さらにエンジンにしても「XR1000」は単純に「750」のヘッドを搭載したというワケではなく「750」の79.5mmボアから81mmに拡大されたことに対応してバルブは1mmオーバーサイズを採用。インテークで45mm、エキゾーストで38mmとなっています。このヘッドはウィスコンシン州ミルウォーキーのハーレーダビッドソン社で基本的な機械加工が施された後、カリフォルニアのチューナー、ジェリー・ブランチのもとに送られ、最終的なポート形状などが仕上げられています。加えてピストンやコンロッド、シリンダーなども「アイアンスポーツ」とは別物で、スペック上では70ps/5600rpmを発揮。レーシングキットの装着で90psに到達。これは同年に販売された「XLX61」の最高出力56psと比較すると性能の違い明白です。その「XR1000」と同時に開発されたBOTTレーサーは「ルシファーズ・ハンマー」と名付けられ、1983年3月にH-Dワークスライダーのレジェンド、「ジェイ・スプリングスティーン」のライディングによってデビューウィンを記録。ダートトラックとの並走が難しくなった「ジェイ・スプリングスティーン」に代わり、その後はライダーを「デイブ・エムデ」、ハーレーのセミワークス的立場にあるディーラー、ティリー・ハーレーダビッドソンの「ジーン・チャーチ」に交代。そのチャーチによっても84年、85年、86年とBOTTで3連覇を飾り、ハーレーダビッドソンの実力を見せつけるに至っています。「ある村を制圧した侵略者たちの蛮行に怒った魔王、ルシファーが鉄槌を下すべく彗星を落とした」というアイルランドの伝説にちなみ、イタリアン・バイクやジャパニーズバイクの侵略に対抗すべく名付けられた「ルシファーズハンマー」というハーレー・レーサーと、そのテクノロジーを注ぎ、2年間のみ生産されたのが「ハーレーダビッドソン・XR1000」という市販モデルなのです。